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ぼくが医者になりたいと書いたのは僕のお父さんが交通事故で死んで母が病気だからです。 母の病気は、世界のどの国でも直す方法がないそうです。 ぼくはだから大きくなって医者になりたいと思いました。 しかし、医者になるには、頭が良くないと入れません。 だから母がこう言います。「ぼくじゃ…どうかな……」ぼくはがんばってやってみようと思いました。 ぼくは、どこに母の病気を直すくすりがあるのだろうなあと思いました。 母が、「まだ子供だし、医者になれるかどうかもわからないから、大きくなってから考えたら……でも期待しているわよ」と言いました。 ぼくは医者になるぞと思いました。 それまでお母さん死なないでね。 小学3年生 かげやま しげお(仮名) 「交通事故遺児を励ます会・会報」S47年1月12日発行より |
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過日は、私の入院につき励ます会の会員の方々はじめお母様方には大変ご心配をおかけいたしました。 突然の交通事故で主人を亡くして八年……不治の病と宣言されて五年……入院三回、一回目の入院の日、早く帰って来てネと大粒の涙を流しながら帰っていく息子の後姿にゴメンネ、ゴメンネと心の中でつぐやきながらやっぱり泣いてしまった私。 二回目の入院、もう二度とあうこともないであろうと、うすれていく意識の中に浮かんでは消える息子の顔、顔……。そして三日目、お母さん僕だよと枕元で私の手を取ってニコニコしている息子にうれしくてうれしくて無性に泣いた私……。そして同病の友達の次々の死に、暗く重い日々を送りました。 三回目の入院……それは今迄にない明るい入院生活でした。お医者さんも薬もさる事ながら会員の方々はじめ、お母様方の励ましがあったからです。 引越・転校・入院・ほんとうにいろいろなことがありました。私の入院の中残された子供の所に家庭訪問で元気づけてくれたという会員の方々……お母様方と知り合いになれたのも、やっぱり励ます会を作って下さった会長さんはじめその会に賛同下さった会員の方があればこそです。これからも子供達の心の支えとなって下さることをお願いいたします。 そして、どんなに貧しい日々であっても、心だけは常に明るく生きていきたいと思っています。早く元気になってお母様方におあいできる日を楽しみにしています。 影山 七重(仮名) 「交通事故遺児を励ます会・会報」S47年4月13日発行より |
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●昭和39年9月、新潟県南魚沼郡六日町で、バイクにのった影山和夫さん(当時29才・仮名)が、ダンプにはねられて死亡。 ●妻、七重さん(仮名)27才。長男、茂夫くん(仮名)2才。 ●40年、わずか120万円の補償金は借金返済に消える。七重さんは上京し職安に通うが、子供連れのためなかなか就職できない。やがて土建会社社員寮の寮母として住み込みで働くが、過労がたたる。 ●41年。七重さん、東大付属病院に入院、病名は原因不明の難病、膠原病である。 ●43年。七重さん退院。アパートを借り、パートタイムの仕事をするが、寝たり起きたりの生活がつづく。 ●45年。茂夫君の作文「もう一どかたぐるまして」が、交通遺児作文集「天国にいるおとうさま」にのる。 ●46年。生活保護を受ける境遇となるが、自活の道を求め病気をかくして三鷹の電々公社女子寮に寮母として住み込む。茂夫君の度重なる転校の問題でなやむ。 ●47年9月。七重さん関東中央病院に入院。茂夫君は、「SOSこどもの村」にひきとられる。 ●49年8月末。都営母子住宅に入居許可。(上京していらい抽選にはずれつづけていたため、美濃部都知事に直訴)七重さん、茂夫君やっと得た我家で三日間だけ、親子水入らずの生活をおくる。 ●9月13日。七重さん、脳いっ血で死亡。 ●和夫さんの死から10年。ひとりぼっちになった茂夫君は新潟の親戚へ……。 |